ある年から2回目の2月 ―人間からー Vol④

 盛大なものではなかったが、15年近くも家の周りをうろついていたネコを見送った。

 

 家に入れたときから、年老いたネコであったので先は長くないだろうと思っていたが、あまりにも急だった。

 

 ネコは弱った姿を見せないのだという。人間の近くにいても野生の習性を持ち続けている。弱さを見せることは死につながる。ましてや大半を野良ネコと死して過ごしていたのだから、野生の習性を持っていて当然だ。

 

 主を失ったキャットタワーが残されている。どうしようか。もう登るネコはいない。

 

 

 

 だが、残すことにした。姿かたちは見えなくなっても、魂は残り続けるのではないだろうか。そう思えてならなかった。見えることはないが、ムスッとした顔で寝そべっているあいつの姿が浮かんでくるようだった。

 

 しばらくキャットタワーを眺めて、窓の外に若いネコがいた。近づいても窓を開けても逃げずにじっとこちらを眺めていた。

ある年から2回目の2月 ―人間からー Vol③

 ささやかながらも「ネコ」の葬式を終えた。

 

 

 15年ほどそばにいたものを見送る。周りにいた人間としての務めを果たせたのではないか。最小限ではあるが。

 

 

 冷たく硬くなった「ネコ」を火葬する為の箱に入れた。あれだけ抱くことなどもってのほかだった「ネコ」が嫌がりもしない。もう生きていないのだと思い知らされる。

 

 葬儀社の車が出発した。ゆっくりとゆっくりと。火葬場所に出るにはすぐ近くに幹線道路があるのだが、そこは通らず遠回りして車が家の前からずっと見えるような道を選んで走ってくれた。

 

 車が見えなくなるまで、色々なことを思い浮かべた。初めて家に来た時。あまりにも小さくてカラスに襲われたりしないかと心配したこと。セミや雀、ネズミを捕まえて自慢するかのように大きな鳴き声を上げていたこと。自分より小さな猫には優しかったこと。身体が徐々に弱って冬になると毎年風邪をひいていたこと。災害的な大雪で助からないと思って無理やり家に入れたこと。家の中で家主のようにふるまっていたこと・・・

 

 色々思い返した。新たな思い出が積み上げられることはない。薄れていくだけなのだ。

ある年から2回目の2月 ―人間からー Vol②

 死んでしまった「ネコ」をそのままにはしておけない。とりあえず、ペット葬儀社に電話を掛けた。すぐにではなかったが、その日のうちに来てくれた。家族全員が時間を作れることのできる珍しい日であった。

 

 葬式に当たって色々と聞き取りがあった。野良猫であり、冬の寒さをしのがせようと家の中に入れたこと。思いのほか気に入ったのか、暖かくなっても家に居ついたこと。気が付いたら15年ほど生きていたことも話した。

 

 葬儀社の担当者が言うには、大半を野良として過ごした猫の葬儀は珍しいのだという。まあ、そうだろう。野良猫の葬式を上げるとは酔狂なものだと我ながら思う。

 「野良猫として大半を生きて15年も生きる猫を見たことがありません。なかなかないケースだと思います。」葬式の準備をしながら葬儀社の担当者が話した。試しにネットで調べてみると、野良猫の寿命は8年程度であった。

 「こちらの居心地が良かったのではないでしょうか」重ねて担当者が話していたが、思い返してみてもとてもそう思えなかった。

 

 

 もう一度考えてみた。不愛想な猫であったが、この家の周りで過ごすことや、家族が話しかけてくるのを楽しみにしていたのだろうか。あの顔で心躍らせていたのかもしれないと思うと、笑いが込み上げてきた。

 

ある年から2回目の2月―人間からーVol①

 「ネコ」が死んだ。

 

 

 名前らしい名前も付けず、ただ「ネコ」と呼んでいた。だが、確実に15年は家の周りをうろついていた。今まで、多くの野良猫が来ては消えていった。ここまで長く家の周りをうろついていたのはこの「ネコ」が初めてだった。

 

 不愛想という言葉がこれほど似合うものはない。「にゃー」という猫らしい鳴き声を一度も聞かないままであった。

 だが、どこか惹きつけるものがあったのは事実。去年の冬に風邪をこじらせて弱りはじめ、更に大雪が積もった。寒さで震える「ネコ」を家の中に入れてやった。

 

 思いのほか嫌がらず家の中で過ごした。何か不満があるとうなり声のような声を上げる。YouTubeやテレビに出てくる猫とは大違いの、可愛いとは対極にある姿だった。

 

 十五年もいた猫であるから、死んでしまって寂しさは多少あった。だが、それ以上に命の終わりを見届けたこと、周りの人間として最期を看取るという務めを果たせたという安堵感があった。

 

 

ある年から2回目の2月 ―「若者」からー

 あの方が死んだ。

 

 

 

 

 話しかけても、めんどくさそうに顔を上げてくれないんだ。

 

 

 

 そこにあるのは、あの方の形をしたもの。もう動かない。

 

 

 

 僕にはわかっていたんだ。あの方がもう長くは無いという事を。多分、あの方も解っていたと思う。だから、少しでもそばにいたかった。だけど、あの方はそういうのを嫌う。

 

 

 

 色々なことを教わった気がする。「何が」と聞かれても困るけれど、とにかく今があるのは、あの方のおかげ。

 

 

 

 気が付いたら、あの方は「ニンゲン」と暮らしていた。あんなに「ニンゲン」が嫌いだったのに、何があったのだろう。聞きたかった。聞けなかった。

 

 あの方の周りにいる「ニンゲン」の悲しんでいるのを見ていると、それなりの扱いを受けていたのかもしれない。だから、あの方は外に出なかったのだろう。

 

 

 

 「ニンゲン」が「ソウシキ」だとか「ハカ」だとか、よく解らないことを言っている。

 

 

 僕はしばらく、その風景を眺めていた。死んでしまった、あの方を見つめ続けることが、せめてもの恩返しになると思ったから。

ある年から2回目の2月⑥

 今日はとても暖かい。良い天気だ。「ハル」が来たようだな。吾輩は「きゃつとたわぁ」の上でひとしきり眠った。最高の寝心地だ。ずっとこんな日が続けば良い。

 

 

 

 ぅう。何が起こったか解らん。さっきまで「きゃつとたわぁ」の上にいたはずなのに、今は下で横になっている。

 

 よく解らないが、気を失って落ちたようだ。情けないものだ。そして息も苦しい。

 

 「カァチャン」と「ニイチャン」が吾輩の所に来た。身体を撫でてくれたがゴロゴロはできない。昨日まで元気に過ごしていたのだがな。

 

 

 吾輩はもう、終わりなのかもしれん。それは、何となく感じていた。ここ最近の調子の悪さもそのせいだと思っていた。だが、死ぬことは何とも思わん。生まれるものは死ぬ運命にあるものだ。必ずな。

 

 「カァチャン」、「ニイチャン」よ。悲しむな。吾輩は感謝しておる。あの「ユキ」では生き延びることができなかった。二度も「ハル」を迎えることができた。二度も「フユ」を越えることができた。

 

 

 息も荒くなって、身体も動かなくなったが。穏やかな気分だ。

 

 

 

 

 

 吾輩は「ニンゲン」どもが嫌いだ。今もだ。だが、「ニンゲン」どもにも色々いる。このねぐらの「ニンゲン」どもは別だ。寂しく野垂れ死にするより他は無いと思っていたが、こうして見守られながら逝くのか。悪くない。

 

 

 

 

 

 「ありがとう」だの「生まれ変わってもこの家に来い」だの、色々言ってきた。

 

 吾輩も感謝しておる。ありがとよ。

 

 あぁ。生まれ変わって、このねぐらに来てやる。そのかわり、最高の「きやつとふぅど」を用意しろ。「ヒトオダメニスルそふあ」は吾輩の物だぞ。

 

 

 色々あったな。そして世話になった。そろそろのようだな。

 

 

 ありがとよ。

 

 

 

 ありがとよ。

 

 

 

 ありがとよ。

 

 

 

 

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